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| 現在の和平橋の南東にある「阿根娜遊艇廠」の界隈は、昔「銅鉱」と呼ばれていました。この名称は、日本統治時代に金鉱石や銅鉱石などを運ぶ「金瓜石線」と呼ばれる軽便鉄道が走っており、金瓜石などで取れた鉱石をここまで運んで、ここが日本に送るための集積場所となっていたことに由来しています。当時この付近は鉱業で賑わう名の知られた場所だったのです。(※金瓜石線については「駅舎跡&基隆橋」をご覧ください) また、基隆の和平島は古くは「社寮島」と呼ばれ、台湾原住民の一族であるケタガラン族の一支族であるバサイ族がここに住んでいました。バサイの人々は、台湾の数多くの原住民の中でも唯一長距離の航海に長け、漁業と貿易を営む民でした。17世紀の北台湾で一番よく使われていたのは、なんと彼らの母語であるバサイ語だったのです。 |
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| バサイの民は皮膚の色は白く、背が高く勇猛だったため、当時のヨーロッパ人は彼らのことを「北フォルモサにいる白い悪魔の海賊」と呼んでいました。彼らは貿易と航海を得意とし、東海や西太平洋を縦横に行き巡りました。バサイの人々は幾つもの言語を自由に操り、多くの民族との交流を楽しんでいたのです。 学習能力が高く、貿易が上手だった彼らには、毎年中秋節から正月の期間にわたって船を漕いで海に出、出会った人々の首を取り(「出草」と呼ばれる)先祖の霊をなだめるという習慣がありました。ヨーロッパ人に愛されまた恐れられた部族だったのです。 バサイ族は稀に見る女尊男卑の母系社会を営んでいました。航海と漁業の他に、彼らは造船や踊りにも長じていました。清朝の康熙帝の時代には社寮島は「大●籠社」と呼ばれ、ケタガラン族がここに密集していました。その後スペイン人、オランダ人、フランス人、日本人、琉球人、朝鮮人、漢民族などの移民がやって来、それら外来民族や地元のアミ族などとの混血が進み、ケタガラン族は次第にその実態を失ってしまったのです。 ※●印は、鶏の右側が隹。 |
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