烏山頭水庫風景區

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烏山頭水庫風景區

 台湾南部に広がる嘉南平原は20世紀前半まで不毛の大地でした。八田與一はそこに巨大なダムと広大な灌漑水路を作り大農業地帯に変えました。その功績とざっくばらんな性格は現在でも台湾人に慕われ尊敬されています。

 

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住所 台南市官田區嘉南里68-2號
アクセス 台湾高速鉄道台南駅から車で約30分
電話 06-698-2103 / 06-698-6388
営業時間 3-10月6:00-18:00 / 11-2月6:30-17:30
定休日 月曜日(月曜日が祝日の場合翌日が休み)
WEB http://wusanto.magicnet.com.tw/
備考 入場料:200元
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不毛な大地、嘉南平原を肥沃な農地に

烏山頭水庫 台湾の南部、彰化県、雲林県、嘉義県、台南市、高雄市にまたがる嘉南平原は台湾で最大の平原。北回帰線が通り、亜熱帯と熱帯の境目にあたる地域で、夏は雨が多く洪水が多発し、冬は干ばつと沿岸部では塩害もあり、農作物を育てるのには不向きな環境でした。

 八田與一は明治19年(1886年)2月21日に石川県河北郡花園村(現在の金沢市)で生まれ、1910年に東京帝国大学工学部土木科を卒業するとすぐに台湾総督府内務局土木課の土木技師として台湾に赴任しました。台湾では下水道、発電、灌漑工事などインフラ整備に関わりましたが28歳のときに現在の石門ダムの前身にあたる桃園大圳(桃園の灌漑用の水路網)開発の責任者として見事に工事を完成させ、台湾の水利技術者として名を上げました。

 桃園大圳の工事と並行して台湾中を調査した八田與一は、ダムを造り嘉南平原に水路を張り巡らせば、洪水も干ばつも塩害も解消され、およそ15万ヘクタール(琵琶湖約2.2個分)の肥沃な農地ができるという計画を考えました。当時30歳の若い技師の計画は、政府から開発価値ありと許可され、大正9年(1920年)9月1日に建設工事が始まりました。なお、同郷の外代樹(とよき)さんと結婚したのはこの頃のことでした。

八田與一の技術と人柄

烏山頭水庫

 この計画は官田渓上流の烏山頭にダムを造り、山向こうを流れる曽文渓から3.2kmの取水用トンネルを堀り、自然の渓谷を利用して人造湖を作り、同時に嘉南平原に総延長16,000kmの灌漑用水路を張り巡らせるというものでした。八田氏はこの建設工事に専念するために台湾総督府の職員を辞めて、ダム工事の施工と運営を行うために作られた嘉南大圳組合の技師として指揮を執ることになりました。

烏山頭水庫の堰堤

 ダムの堰堤はセミ・ハイドロリック・フィル工法と呼ばれる工法で、これは堰堤の中心部にコンクリートの芯を作り、周囲を石や粘土で覆い堤にするもので、ハイドロリックの名の通り、水を使います。石や砂利、粘土が混合した土石を盛った後にポンプで水をかけることによって、粒子が細かな土ほど堤防の中心部に集まり、強固な層ができるという仕組みです。この方法でダムを造るとダム湖に土砂が堆積しにくく、地震に強い等の利点があります。他ではない工法のために「八田ダム」とも呼ばれています。

10年間もの大工事

ベルギー製の蒸気機関車

 八田氏は前例のない工法のためアメリカ視察を行い、400万円ものお金を使い、パワーショベルなどの大型機械を購入することにしました。誰も使ったことがない高価な土木機械の購入は組合や業者が反対したのですが、八田氏は「この大工事は人力ではいつまでたっても終わらない。高価な機械を使って早く終わらせば、それだけ早くお金になる。」と説得し導入を決定します。そして、莫大な量の土石を運ぶために、およそ20km離れた曽文渓まで軌道を敷設して、ベルギー製の蒸気機関車を運行しました。

 現場では毎日1,000人を越える人々が働いていたそうです。50人以上の死傷者が出たトンネル工事でのガス爆発事故や関東大震災の影響での予算カットなど様々な苦難があり、工事を止めた方が賢明ではとの議論も起こりましたが、1920年に始まった工事は何度かの延長と予算の増額が行われ、ついに1930年3月に完成しました。堰堤の高さは56m、長さは1,273m、幅は9mで、貯水量は1億5千立方メートルと黒部ダムの75%にあたる容量で、完成当時は世界最大のダムでした。工事日給が1円の時代に、最終的な工事費は5,400万円になっていました。

殉工碑

 10年間の工事で134人が犠牲になりました。亡くなった人々は工事完成後に日本人、台湾人の区別なく殉工碑に刻まれ、現在でも旧暦7月15日に慰霊祭が行われています。八田氏の差別のない振る舞いは、難工事を遂げた実績とともに現在でも親しまれている理由の一つになっているようです。八田氏の仕事への厳しさと人を大切にするエピソードはたくさん残っています。たとえば、予算が減らされて従業員を解雇しなければならない時は、優秀な者から辞めてもらったそうです。優秀な者は再就職が簡単にできるが、そうでないものは失業してしまい、生活ができなくなるとの理由でした。なお辞めてもらった人にも再就職先を探して、予算が戻ったら現場に戻れるように奔走したそうです。

 現在の堰堤の風景は、青々とした草に覆われていて、一般にイメージされる巨大なコンクリートの塊ではなく、のどかな小高い丘のような佇まいです。大量の土砂を運んだ蒸気機関車は屋根付きの場所に展示されていて、今でも動きそうなほどです。

烏山頭水庫烏山頭水庫烏山頭水庫

八田與一の銅像

八田與一の銅像八田技師記念室

 堰堤の北端に八田氏の銅像が置かれています。これは嘉南大圳組合が八田氏の功績を記念するために、ダム完成後の1931年7月に作ったもの。太平洋戦争末期には金属回収の命令を受け、この銅像も徴収されたのですが、終戦後すぐに水利組合の職員が隆田駅の倉庫にあるのを発見し烏山頭に持ち帰りました。しかし、戦争が終わってからは日本人の銅像を据える雰囲気ではありません。長い間、八田氏が住んでいた家屋に仕舞われて、1981年になってようやく元の位置に置かれました。

 銅像の八田氏は地面に座り込んでいます。これは八田氏が威厳のある銅像は止めてくれと言ったためで、よく工事現場を見ていた時の座り込んだ格好が採用されたそうです。右手が頭に触れているのは右手の人差し指で髪の毛をぐるぐる回す癖があり、機嫌が悪い時は小さく早く回していて、機嫌が良い時には、大きくゆっくり回していたそう。現場の人は、この癖で八田氏の機嫌を確認してから仕事の相談をしていたそうです。

その後の八田與一

曽文ダム 巨大なダムでも嘉南平原の全地域に常に水を行き渡らせることは不可能でした。そこで土地を区画分けして、常に水が必要な稲作、栽培初期に水が必要なサトウキビ、それほど水を使わない雑穀と1年ごとに順次栽培していく「三年輪作給水法」と呼ばれる仕組みが作られました。農民への技術指導を繰り返し、ダムが完成して3年後には生産が軌道に乗り、嘉南平原は台湾の穀倉地帯と呼ばれるほどになりました。ちなみに地価も9,540万円(当時)に上昇し、総工事費を上回る額となりました。

 ダム竣工後の八田氏は、台湾総督府内務局土木課に復帰して台湾全島の産業開発計画案を作ります。現在、台湾最大のダムである曽文ダムの堰堤地点は八田氏が生前に選定した場所です。烏山頭ダムには年1回ほど訪れ運用で気を付ける部分について指導したそうです。台湾以外にも福建省や海南島の開発の相談を行ったりしています。後任の育成にも力を入れていて、土木測量技術員の養成所を設立しました。この学校は現在でも瑞芳高級工業職業學校として残っています。

烏山頭ダムの放水口八田技師記念室

 1942年、八田氏は南方開発派遣要員としてフィリピンへ水利開発の実地調査に出かけるため、3名の部下と大洋丸に乗り込み広島の宇品港を出港しましたが、5月8日、五島列島を出た辺りでアメリカの潜水艦の攻撃を受けて船は沈没。八田氏も帰らぬ人となりました。57歳でした。遺骨は台湾に帰ってきて、たくさんの人々が集まって葬式が行われました。夫人の外代樹さんは太平洋戦争が終わった1945年9月1日に、烏山頭ダムの放水口に身を投げて夫の後を追いました。烏山頭の人々は外代樹さんの突然の死に悲しんだと言われています。八田氏が静かに座る後ろには2人の名前が刻まれた墓石が建てられています。

烏山頭水庫風景区

八田技師記念室

 現在、烏山頭ダムの周辺は「烏山頭水庫風景区」として、プールや公園、バーベキューやキャンプを楽しめる広場、さらにはリゾートホテルもあるエリアとして整備されています。ダム湖は無数の谷を刻みに、谷の上の尾根は木々の枝か珊瑚のようで、そのさまが「珊瑚湖」と呼ばれる風光明媚な風景を生み出しています。敷地内には八田技師記念室があり、当時の生活を撮影した写真や衣服、八田氏に関する数々の資料が展示されています。取材当日には世界遺産登録運動の署名簿も置かれていて、台湾人はもちろん、ここを訪れた日本人の署名も多く見られました。


八田技師記念室八田技師記念室烏山頭水庫風景区

八田與一記念公園と八田故居群

八田與一記念公園と八田故居群

 ダム工事中には烏山頭に宿舎などの関連施設が建設されました。建物の数は68棟で234世帯が入居可能。さらに病院、学校、大浴場、テニスコートなども備えられていて、まるで一つの町のようでした。山の中の娯楽の少ない場所なので芝居の講演や映画の上映も行われていたそうですよ。これらの遺構は戦後は顧みられることもなく荒れ果てたままでしたが、2011年5月に八田氏が当時暮らしていた住居を始めとして、当時の4つの宿舎が再現され、八田與一記念公園として公開されました。4つの宿舎は綿密な調査と日本の建築士や大工の協力も得て、当時の宿舎を忠実に再現した建物となっています。


八田與一記念公園と八田故居群八田與一記念公園と八田故居群八田與一記念公園と八田故居群

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