第1回 
 小雨の中を一日中走り続け、夕方になってやっと瑞穗の駅にたどり着きました。合羽をすり抜けた雨が服をぐっしょりと濡らし、芯まで冷え切った身体に体力はほとんど残っていません。とにかく早くお風呂に入りたい、身体を温めたい、そして眠りたい・・・頭の中はそればかりです。今夜の宿である「後山歳月村荘」に電話を入れ、待ち合わせ場所を確認すると、私は残りわずかな気力を振り絞って再びバイクを走らせました。

 駅を離れてしばらくすると、だんだんと周囲の明かりが少なくなりはじめ、走れば走るほど私の視界から建物の影は消えていきます。ついには田畑ばかりで、自分の手さえ見えない暗闇になってしまいました。時折周囲を明るく照らす雷の閃光。道さえわからない初めての土地で、激しい風雨に見舞われ、体力を消耗しきった私は、旅を始めてしまったことへの後悔さえ感じ始めていました。そして、久しぶりに見えたと思った家の明かりの下では、なんとお通夜が行われている始末。もう気分は最悪です。

 それでも何とか目的の待ち合わせ場所に辿り着くと、宿の主人が雨の中を待っていてくれました。バイクから下ろした荷物を持ってくれ、「お疲れ様」と声をかけられた時のうれしさは、思わず涙が込み上げてきそうなほどでした。

 宿の建物は、中国の伝統的な「三合院」形式で、恐らく40〜50年前に建てられたものでしょう。壁や柱の雰囲気が古さを感じさせますが、穀物の晒し場に並べられたテーブルや椅子、無造作に置かれた自転車、全てが周りの環境に溶け込んでいるようで、とてもいい味わいを出しています。黄さんという主人は白いTシャツに黒い海軍風の短パンという出で立ちで、はっきりとした目鼻立ちを持ち、浅黒い肌がとても逞しさを感じさせます。私はてっきり台湾原住民だと思っていたのですが、台北市の出身とのことでした。

 部屋に荷物を置くと、とにかく早くお風呂に入りたい私に黄さんはこう言いました。
「お風呂に入りたい?じゃ、まずは薪を作らないとな。」
「え?薪を作る?」
 私は驚きよりも体中から全ての力が抜け落ちていくのを感じました。

「そう、君のためにちゃんと残してるから。これは伝統的な習慣なんだよ。」
 黄さんはさも嬉しそうに、その伝統的な習慣について説明してくれます。
「ちょ、ちょっと待ってください。私は死にそうなほど疲れているのに、今から自分で薪を作るなんてとても出来ませんよ。」
 私の抵抗にも、黄さんがひるむことはありませんでした。
「とにかくやってごらん。とても面白いよ!」
 そう言って笑うばかりです。

 体力だけでなく気力まで失った私は、フラフラしながらも薪作りに取り掛かりました。薪を作りながら、なぜこんなことをしないといけないのかという怒りさえ私の中には芽生え始めていたのですが、出来上がった薪に火をつけ、次々と燃やしていくと、そこから立ち上るとてもいい香りと、ゆらめく炎の温かさがジワジワと身体に染み込んでくるのがわかります。
  冷え切った身体は徐々に体温を取り戻し、指先にも血が通っていくのが実感として感じられていくのです。そして、ちょうどいい具合に沸いたお風呂に飛び込み、あごの中ほどまでお湯に浸りながら、今日の行程を思い出している頃には、自分で薪を作り風呂を沸かすという行為は、案外面白いことなのかもしれないな。そんな風に考えられるようにさえなっていました。

 お風呂からあがると、黄さんが少し話をしないか、と誘ってきたので、2人で客室に座り込みました。
「一人で旅行しているのか。それはすばらしい。実は私も昔同じことをしてたんだよ。」
 黄さんはうんうんと頷きながらにこやかに笑っています。
「え?それは本当ですか。今日はいい人に出会えてラッキーだなぁ。」
 私は自分の目が思わずキラキラと輝いてくるのがわかりました。
「20歳までに一人で自転車旅行をして、台湾を4回も回ったよ。ほとんどの山も征服したし。そうそう、黒奇菜と言われる奇菜山にも登ったよ。」
 黄さんは楽しそうに旅の思い出話を語ってくれます。
「すごいなぁ。なんだか古くからの友達に出会ったような気分ですよ。よかったらもっと話を聞かせてください。」

 旅の話はもちろん、昔話から将来のこと、そして人生についてまで、話が尽きることはありません。黄さんは自然が大好きで、さらにこの土地の人たちの深い人情や素朴さが気に入り、台北での豊かな生活を捨ててここでの生活を選んだのだそうです。幸せを難しく考える必要はない。「簡単な幸福」はすぐ近くにあるものだと・・・。黄さんの話の全てを理解できたわけではありませんが、どの内容も私の興味を引くものばかりでした。

 そして、話が盛り上がってきた頃、急に黄さんが「秘密の庭」に行こうと言い出しました。そこはあくまでもプライベートな場所だから、お客さんを連れて行ったことはないのだが、今日は特別だと。「秘密の庭」って一体なんだろう・・・。とにかく黄さんの運転する軽トラックに乗ったのですが、車はどんどんどんどん山の中へ入っていきます。山奥の火葬場さえ通り越し、道はどんどん険しくなっていきます。黄さんは何にも話してくれないから、私は次第に不安になっていきました。

 そのままさらに山道を走ると、どこからともなく歌声が聞こえてきました。黄さんは車を止めると、私を連れてとても古めかしい感じの建物に入りました。すると、中では数名の台湾原住民たちが楽しそうに歌っているではないですか。彼らは驚いている私を見つけると、一緒に歌おうと誘ったり、自家製の「米酒」を飲めと勧めたりと、とても初めてとは思えないほどの大歓迎の様子です。どうやらここが黄さんの「秘密の庭」のようです。

 私も徐々に落ち着いてきて、周囲の状況が把握できるようになってくると、彼らの歌声の素晴らしさにまずは驚かされました。
 彼らは生まれつきとても綺麗な声を持っているらしく、恐らくプロにも負けないだろうと思うほどの歌を次々と披露してくれます。あれだけ強く降っていた雨もいつの間にかあがり、ひっそりと静まり返った山奥に美しい歌声が響き渡ります。
 私も何杯かのお酒をご馳走になっていい気分になり、彼らと一緒に歌ったりしました。もちろん、彼らの歌に勝てるレベルではありませんが、負けまいと懸命に歌いました。
 そしてその後も、歌ったら飲んで、飲んだら笑い、疲れたらしばらく眠り、目が覚めたらまた歌って、飲んで、笑って・・・。そんな時間をどのくらい過ごしたのか私は全然覚えていませんが、見知らぬ人たちの前で、これだけ開放的になれたのは生まれて初めてのことでした。黄さんの言う「簡単な幸福」とはこういうことを言うのでしょうか。

 宿へ帰ってからも、黄さんと私は布団を庭に広げ、満点の星を眺めながら話し続けました。夜の静寂に包まれ、時折聞こえる風の音、山の声・・・。そしていつの間にか、私は深い深い眠りについていました。

 なるほど、幸福というのはこんなに簡単なものだったのです。


つづく